東京都内でフリーランスとして働くともみさん(40歳・仮名)は、恋愛に前向きになれない時期が長く続いたと話します。
臆病さの裏にあったのは、失恋の傷だけではありませんでした。

「見られること」への疲弊、断ることへの消耗、そして社会から植えつけられた恐怖——

それらをひとつひとつほどいていった先に、何が見えてきたのか。じっくり話を聞きました。

「かわいくなきゃ」呪縛の正体


恋愛に前向きになれない理由として、多くの女性が「自信がない」と言います。
でもともみさんに話を聞いていくと、その「自信のなさ」の奥に、もっと根深い何かが見えてきました。
まず、20代から続いてきた「見られること」への疲弊から聞かせてもらいました。

20代のあの頃、鏡の前で何時間費やしたか覚えていますか?

——今の自分を振り返ったとき、20代の頃と何が一番変わったと感じますか?
「鏡の前にいる時間が、すごく短くなりました(笑)
20代の頃は、待ち合わせの2時間前から支度を始めていたんですよ。
ファンデーションを塗り直して、アイラインを引き直して、それでも『なんか違う』と思いながら家を出る。

今考えると、あれはいったい何と戦っていたんだろうって思います

——恋愛に一生懸命だった、ということではなかったんでしょうか?
「それが、そうじゃなかったと思うんですよね。
『異性にどう見られるか』という視点に、四六時中支配されていたというか。
洋服を選ぶときも、食事するときも、笑うときも泣くときも、どこかに男性の目線がちらついていて。

まるで見えないカメラの前に立ち続けているみたいな感覚でした。
デートの翌朝も『あのとき笑いすぎたかな』『もう少しおとなしくしていればよかったかな』って、ひとりで反省会をやっていましたから。

恋愛をしていたんじゃなくて、採点されることに怯えながら合格発表を待ち続けていた、そんな感じです」

「モテたい」より「嫌われたくない」が本音だった

——外見を整えることに、そこまでエネルギーを使っていた理由はなんだったと思いますか?
「正直に言うと、恋がしたかったからというより、『嫌われることへの恐怖』がベースにあったんだと思います。
太っていたら引かれる、地味すぎたら眼中に置かれない、派手すぎたら『軽い女』と思われる。

意見をはっきり言いすぎると『扱いにくい』と思われるし、何も言わないと存在感がない。
その細いラインをずっと綱渡りしながら、『ちょうどいい私』を演じ続けていました

——それはいつ頃から始まったことだと思いますか?

「特定の誰かに傷つけられた、というよりは、社会全体から長年受け取り続けてきたメッセージの積み重ねだと思います。
そしてその恐怖心って、年齢とともに形を変えるんですよね。
20代は『若さ』でごまかせたことが、30代で少しほころびはじめて、40代になると今度は『今さら恋愛なんて』という言葉で、自分自身を先に諦めさせようとしてくる。

でも、それって本当に自分の気持ちなのかな、と。
長年かけて刷り込まれた『あなたにはもう資格がない』を、内面化しているだけじゃないかと気づいたとき、何かがほどけ始めた気がしました」

「異性として見られること」のしんどさ

話を聞いていくうちに、ともみさんの言う「疲れ」が、外見への意識だけではないことが見えてきました。
もっと日常の、身体に近いところにある消耗。
「女として見られること」そのものへの疲弊について、さらに深く聞いていきました。

気を持たせないように、傷つけないように

——「見られること」の疲れ、というのはもう少し具体的にどんな場面で感じていましたか?
「好意を向けてくれた相手をどう断るか、何度考えたかわからないくらい悩んできました。

はっきり断れば『冷たい』と言われる。曖昧にしていると『脈あり』と受け取られる。
やんわり距離を置けば『なんで避けるんだ』と責められる。
どうしたって正解がなくて。『気を持たせないように、でも傷つけないように』という綱渡りを、ずっとやり続けてきた感じです

——それは恋愛の場面だけではなく?
「日常のあちこちで、ですね。電車の中で視線を感じるとき、職場で必要以上に話しかけてくる人がいるとき、『ふたりで食事しよう』の誘いの意味を測りかねるとき。
そのたびに頭の中でシミュレーションが走るんです。
その積み重ねが続くと、恋愛そのものが『また面倒なことが始まる入り口』に見えてくる。
恋愛が怖いんじゃなくて、恋愛の周辺にある『あの気疲れ』がまた始まることへの警戒心なんだと思います」

「部屋に行った女が悪い」——あのニュースが、私たちに植えつけたもの

——そのしんどさは、社会的な出来事とも結びついている部分がありますか?
「ありますね。誰かの部屋を訪ねた女性が被害に遭ったというニュースのとき、コメント欄に並ぶ言葉があるじゃないですか。『なぜ行ったのか』『隙があった』『自業自得』。あれを読んだときの感覚、怒りよりも、底冷えするような恐怖の方が大きかったんです」

——どんな恐怖だったんでしょう?
『何かあったとき、責められるのは私の側なのだ』という確信が、じわじわと身体に染み込んでくる感じです。
だから誰かの家に行くことに慎重になるし、夜に会うことをためらう。
好意を持った相手に対しても、どこかで『これは罠かもしれない』という警戒を解けないでいる。

これって被害妄想じゃなくて、そうやって自分を守るようにと社会に学ばされてきた結果なんですよね。
異性の存在そのものが『リスク』として感知されてしまうくらいに消耗してきた、ということも含まれていると思います。
そのしんどさを、まず自分で認めることが、解放の第一歩だったかなと」

40代で「もうどうでもいい」と思えた日——それは諦めじゃなく、解放だった

消耗の正体に気づいたともみさんに、具体的な転機について聞きました。
大きな出来事があったわけではない、というその言葉の奥に、静かで確かな変化がありました。

転機は、誰かに言われた一言ではなく、静かな疲労感だった

——何か転機になった出来事はありましたか?
「ドラマチックなことは何もなかったんです。誰かにひどいことを言われたわけでも、大きな失恋があったわけでもない。
ただある日の朝、鏡の前で『あー、もう疲れた』って思ったんですよね。

白髪が増えて、目の下にクマができやすくなって、若い頃より整えるのが大変な顔になっている。
最初は少し落ち込んだんですけど、次の瞬間に来たのが、不思議な安堵感で」

——安堵感、ですか。
「そうなんです。もう、完璧じゃなくていい』という許可を、自分で自分に出せた気がしたんです。
諦めではないんですよ。体力的にも精神的にも『若く美しくあらねば』というプレッシャーを維持しきれなくなったとき、ようやく『それ、必要だったっけ?』と立ち止まれる。
そこから少しずつ変わっていきました。

週末のノーメイクが苦じゃなくなったり、食べたいものを『太るかも』じゃなく『食べたいから』という理由で選べるようになったり。
小さなことですけど、『見られる私』から『生きている私』に重心が移っていく感覚がありました」

それでも、恋愛はしたい——臆病なままで、前に進む方法

解放されたからといって、恋愛への怖さがすっかり消えたわけではない、とともみさんは言います。
傷も臆病さも抱えたまま、それでも前に進もうとしているリアルな今について聞きました。

トラウマや傷は「なかったこと」にしなくていい

——今も、恋愛に対して怖さはありますか?
「あります、正直なところ。傷ついた経験があると、恋愛の入り口に立つたびに『また同じことが起きるんじゃないか』という予感がよみがえってくる。
体は新しい恋を求めていても、記憶がブレーキをかけるんですよね。気がつくと『どうせ私なんか』という言葉が、内側からぽろりとこぼれてきたりする」

——そのブレーキとどう付き合っていますか?
そのブレーキを『弱さ』と呼ばないようにしています。傷ついたから慎重になっている、それは至極まっとうな反応だって。
問題は傷があることじゃなくて、その傷を『自分には恋愛する資格がない証拠』として使ってしまうことだと思っていて。

ただ『私はこういうことで傷ついたことがある』という事実を、自分でちゃんと認めてあげること。
なかったことにしようとするほど、身体の奥に張りついていくから」

「完璧な私」を待つのをやめたとき、恋愛は急に身近になる

——「もう少し自信がついてから」と先送りしてしまう気持ちも、わかる気がします。
「めちゃくちゃわかります。
でも冷静に考えると、『完璧な自分になったら恋愛する』は、永遠に実行されないプランなんですよね。
なぜなら、完璧な自分は来ないから。
40代になって、それだけははっきりわかります」

まとめ——異性の目から自由になることは、恋愛を諦めることじゃない

ともみさんの話を聞いて、「異性の目から自由になる」というのが、恋愛を諦めることでも、男性を遠ざけることでもないということが、くっきりと見えてきました。
それは「誰かに見られる私」ではなく、「自分が主語の私」を取り戻すことだと言えそうです。

外見も、言葉も、感情も、ずっと誰かの評価を意識して調整し続けてきた。
気を持たせないように振る舞い、傷つけないように笑い、ニュースを見るたびに「自分が悪かったことにされる未来」を想像して怯えてきた。
そのすべてが、恋愛への怖さの底に積み重なっていたのだとともみさんは言います。

「変えなくていいんだと思います。臆病な自分も、傷を抱えた自分も、『もうちょっと準備が整ってから』と思い続けている自分も、そのままでいい。
ただひとつだけ変えてみてほしいのは、その自分を『恋愛できない理由』として使うのをやめること。
それだけです」

解放の先に待っているのは、孤独でも諦めでもなく、ずっとなりたかった「自分の物語の主役」としての自分。
ともみさんの言葉が、静かに、でも確かに響きました。

文/AKI